- Topics -

プロフィール

  フラワーアーティスト 和田浩一            

  • 1968年東京生まれ。20歳の時より花業に従事。 ウェスティンホテル東京では開業より13年間余り、ウェディングやパーティー・イベント等のフラワーデコレーションを多数手掛ける。
    レストランウェディングに主眼を置いたフリーランスでの4年間を経て、独自の世界観をあらわすコンセプト花屋『劇的花屋|ドラマティックフラワーズ』を設立。
    現在では活動の場を広げ、CMや雑誌の撮影・イベント・パーティー等、「花」と「植物」を使った空間プロデュースを提供している。

    ■ 資格
    オランダウェラントカレッジ認定ヨーロピアンフローリストリー修了
    同オランダ大使館特別賞受賞

  • ■ 主なキャリア
    2007年 個展『12の心象風景』 開催 ー下谷『galleria ACCa』ー
    2007年 雑誌『小学六年生』(小学館) 特集企画出演
    2012年 映画『アメイジング・スパイダーマン』プライベートディナー フラワーデコレーション
    2012年 長崎ハウステンボス『ガーデニングワールドカップフラワーショー』特別展示&デモンストレーション
    2013年 米国バージニア州知事主催PRレセプションパーティー フラワーデコレーション
    2014年〜 雑誌『ヤングマガジン』(講談社) グラビアページ フラワーアート担当 多数
    2015年 雑誌『フローリスト 10月号』特集:プロ15人の事例に教わるウェディングの秘訣 選出
    2015年 CM『カネボウ化粧品 エビータ』 (今井美樹さん出演) フラワーアート担当
    2016年 MV MACO『恋心』(ユニバーサルミュージックジャパン) フラワーアート担当

人はその生涯の中に、どれだけの物語を自分自身に見出すことが出来るでしょうか?

幼い頃に想いを馳せる人、中学・高校の思春期にタイムスリップする人、社会人になってから遭遇する人、また、まさに今がその最中だと感じている人… 物語はそのまま想い出となり、その想い出の積み重ねが人生になります。そして、その価値観は人によりけりです。

私の好きな言葉の一つに 「人生は舞台だ。誰もがその舞台の上で自分の個性を演じている。」というものがあります。

これは、かのウィリアム・シェイクスピアの戯曲に出てくる台詞だとされています。主役を演じる人の人生もあれば、それを支える脇役を演じる人の人生も存在する。そこに優劣の差はありません。

花もまた同じです。

一目で気を引く花もあれば、ひっそり目立たないまま、その生を全うする花も存在するのです。私たち劇的花屋は、その花という生命体を介して、人々の物語に彩を添えていきたいと考えています。あえて言葉にするならば、我々が贈るのは花ではありません。贈るのは、ドラマです。

あなたの人生の物語に彩を添えていく。それが私たち劇的花屋の使命です。

劇的花屋が心掛けることのひとつ。

主役は、ご注文主であるお客さまであり、また、それを受け取るお客さまであるということ。

そして、その主役をより輝かせるための存在が、ドラマティックフラワーズなのです。

如何にして植物たちを最善の状態で提供し、主役を最高に輝かせられるか。それを担う存在が我々作り手である、と考えています。

植物は、表現の手段やツールでしかない、という考え方は私たちにはありません。主役を最高に輝かせるためのチームの一員。劇的花屋では、人間も植物も、その同義語で括られます。

お客さまのご注文に対して、花の種類・色合い・質感・その他の特徴を徹底的に吟味し最善の形でご用意する。

自然からの恵みであるからこそ、二物とない花々たち。

私たちはそれらを最大限に活かし、お客さまの想いを、この世で唯一無二の形で表現していくことを、常に、心がけています。

お問い合せ

お急ぎのご依頼・注文でも早急に対応させていただきます。
また実績資料・サンプルの制作などお気軽にお問い合せください。

03-5341-4964

土日・祝日を含む10:00~20:00受付
※お急ぎの場合は、時間外でもお気軽にご連絡ください。

メールフォームからのお申込み・お問い合せ

アクセス

  大きな地図で見る

〒160-0002
東京都新宿区四谷坂町11-10扶桑ハイツ四谷1F

● 最寄り駅からのアクセス

都営新宿線 曙橋駅より徒歩3分
東京メトロ丸の内線 四谷三丁目駅より徒歩9分
JR四ッ谷駅より徒歩12分

フラワーアーティストのコラム

フラワーアーティストとは

2015.06.22  

・フラワーアーティストと花屋店員の違いをあらわす場合、”花屋個人としてのお客様を持っている かどうか” を物差しにするといいかもしれない。
つまり、花屋個人として創り出す商品(作品)にどれだけファンを持っているかということ。

・ブランドとは ”信頼”である 。
「◯◯屋さんに花を買いに来た」から、「◯◯さんの花を買いに来た」となった時点から、フラ ワーアーティストとしてのブランドを構築し始めている。

・”マーケティングによって商品化したものではなく、その人の感性によって創り出されたものに市 場が反応する。”
そんな流れを作り出せたら、フラワーアーティストとして一人前といえるだろうか。

・フラワーアーティストを名乗るために資格はいらない。
名刺にフラワーアーティストの肩書きを入れたその日からフラワーアーティストになれるのである。
しかし、どれだけ長くその名刺を持っていられるかもその人次第である。

・”型なし” と ”型破り” の違いを理解することがフラワーアーティストとしての第一歩。

・どんな状況に置かれても事態を収めるリカバリー能力もフラワーアーティストとしての大切な要素。緊急事態には引き出し(=知識と経験)の多さがものをいう。

・フラワーアーティストとフラワーデザイナーの違い。
それは、デザイナーは顧客の求めに応じた商品を提供することが主であり、アーティストは自身の 創り出したものに値段がつくことを主としている。

フラワーアーティストへの道① ~チャレンジ~

2015.06.25

ホテル勤務時代にパブリックスペースの装花を担当していた期間がありました。
1Fメインロビー、B1FとB2Fと2Fパブリックスペースの計4カ所。
この4カ所を毎週月曜日に活け替えていました。

1年を52週と考えると、52週×4カ所=208回。年間で述べ208回の生け込みをしていた計算にな ります。もちろん、はじめからこんな大役を担っていたわけではありません。
私の上司である当時の支配人(花屋でありながらトップの肩書きは店長でなく支配人でした)に 付き、数年の下積みを経て出番が回ってきたのです。

出番が回ってきたとき、私は自分にチャレンジを課しました。

「デザインは2度同じものを使わないことにしよう」

1FとB1FとB2Fの3カ所は基本のデザインが決まっていたため、あまり大胆なことはできません。 残されたのは2Fのスペース。ここならわりと自由にできる。私は、この2Fのスペースにターゲットを絞ったのです。

「この2Fのスペース。ここに飾る装花を、1年を通して同じものが被らないよう、52通りのデザ インを構築しよう。」

このようにして、誰に命ぜられたわけでもない課題を背負って、新たな任務をスタートさせてい くことになりました。

さて、いよいよ始まった活け込みですが、その期間はあらゆるもの、特に他分野からデザインの ヒントを得ようと、常にアンテナを張っていたように思います。毎週毎週が本当に格闘でした。

「1週間ってこんなにあっという間に過ぎるのか」

納品前日までアイデアに悩むことも1度や2度ではありません。頭の中をフル回転させ必死に知 恵を絞り出していました。

その時に会得したアイデアの生み出し方のコツで、今でも役に立っている方法があります。

それは、”リラックスすること”。言い換えれば、”頭の中を空っぽにすること” です。

当時私は250ccのオートバイを所有していましたが、休日に行くあてもなくオートバイを走らせ ていると、急にアイデアがフッと降りてくるのです。

現在はオートバイの代わりに車を運転している時や、本当に煮詰まってしまった時などは、近所 の日帰り温泉に行って首までどっぷり温泉に浸かっていると、問題解決のアイデアが温泉のごと く湧き出てくることがあります。

こういったリラックス方法はわりと一般的かもわかりませんが、私にとっては誰に教えてもらっ たものでもなく、自分自身の体験から得た自己流と認識しています。

フラワーアーティストへの道② ~苦しい方を選ぶ~

2015.06.26  

上司から引き継いだホテルパブリックスペースの生け込み。誰に言われたわけでもない1年52週を 「デザインは2度同じものを使わないことにしよう」というチャレンジ企画。完遂するまでには 幾多の産みの苦しみを味わいました。

苦しみにはいくつか種類があるのですが、ただでさえハードルの高い企画なのに、さらにデザイン を起こす上で、「誰かのマネはしない」というルールを付け加えていたのです

フラワーアレンジメントの書籍をめくれば参考にできるデザインはいくらでも見つけることができ ます。しかし、私はそこに助けを求めることはしたくはありませんでした。

このチャレンジ企画自体がそうですが、当時の私は、自分のキャリアに対して”勝負”を挑んでいた のだと思います。

「模倣ではなく自分の中から湧き出るもので表現しなければ意味がない。」

当時の私の心境は、きっとそのような状態だったはずです。

そしてもうひとつデザインを起こす上でネックになったのは、「1週間、花が綺麗な状態に保てる こと」が必須条件にあったことです。

たとえば、これが1日だけ保てれば良いということならデザインの選択肢は格段に広がります。 ひとつ例にとっていうと、フラワーアレンジメントには、デザインを構築するのに欠かせない”吸 水性スポンジ”というとても便利な資材があります。 ただ、これには弱点があり、花を花瓶などに入れて直接吸水するのに比べ花保ちが落ちるのです。

装花はホテルのパブリックスペースを1週間綺麗に彩っていなければなりません。 そう考えると、”吸水性スポンジ”を使ったデザインは選択肢から外さざるを得ず、これは非常に大 きな痛手でした。

しかし、制限がある中で必死に知恵を絞っていた経験が今でも役に立っていることを考えると、 「あのころ苦労をしておいて良かったな」という思いに至るわけです。

フラワーアーティストへの道③ ~支え~

2015.06.28  

これまで語ってきたように、いろんな産みの苦しみを幾たびも味わいながら、果たして私は自分 に課したチャレンジを完遂することができたわけですが、そこに辿り着くには自分の力だけでは 成し得なかった3つの大きな支えがありました。

上司の支え

私がこの生け込みの担当を仰せつかったのと同時期、新任の上司がやってきました。
この新任の上司は、厳しさと優しさを持って私に接してくれました。
厳しさという点においては、たとえばデザイン起こしについては一切手を差し延べてはくれませ ん。私が夜遅くまで残業をしていようとも、「お先に」といって帰ってしまいます。よくいえば放 任主義というのでしょうけれども。

それと、クライアントへの接し方について一度厳しく叱られたことがありました。あれ以来、気 が緩みそうになる度に、あの時叱られたことを思い出して勝手に背筋がピンと伸びてしまいます。

一方、優しさについて。今のようにスマホでいつでも誰でも気軽に写真が撮れる時代ではなかっ た当時、私の毎週の生け込みを記録としてデジカメに収めてくれていたのです。私の作業が終わる のと入れ違いで、「終わったか。じゃあ行ってくるぞ。」と写真を撮りに向かう上司の後ろ姿がと ても懐かしく思い出されます。

その上司との思い出でこんなことがありました。

他社からヘッドハンティングでやってきた上司に対して、彼の実技を見る機会がなかなか巡って来 ず、「この人は花屋としてのスキルはどの程度なのだろう?」という疑問を持ったのです。 そんな時、上司自らデザイン画を起こさなければならない事態が発生しました。

私は密かに「これは上司の腕前を計るのに絶好の機会だな」と内心ほくそ笑んでいたものです。 ところがところが、出来上がったデザイン画を見せてもらって愕然としました。私などには到底 及ばない、非常に完成度の高い画が描き上げられていたのです。それ以来、私の中で上司への尊 敬の念が一気に高まったことは言うまでもありません。

仲間の支え

ホテル勤務時代は20名ほどのスタッフと共に汗を流していました。 その頃私はマネージャーという役職に就いていたので、私自身お花に触れる・商品を製作すると いうことよりも、部署全体を管理する業務の方が比重としては大きかったのです。 そんな中、唯一フラワーデザインと向き合える時間がこの生け込みだったわけですが、当然これ も一人ではできないことです。

生け込みのアシスタントとして付き添ってくれたスタッフ、日々のメンテナンスを担ってくれたス タッフ、アイデアがなかなか思い浮かばずもがき苦しんでいる時に「何か手伝えることあります か?」と声をかけてくれたスタッフ。

そんなスタッフの支えがあったからこそ、やりやすい環境の中で続けることができたのだと感謝し ています。

お客様の支え

ある時、装花の様子を見に巡回していた時のこと。 2Fパブリックスペースの装花の中に、自分には覚えのないモノが置かれていることに気づきまし た。それは、小さな動物のフィギュアでした。

その時飾っていた装花は、ジオラマにヒントを得たデザインで草原をモチーフにしたものだったと 記憶しています。その草原の片隅にポツリと動物のフィギュアが置かれていたのです。 ”置かれていた” そう、それは ”放ってあった” ”忘れてあった” のではなく、明らかに ”意志を持ってそこに置い た” 形跡でした。

「お客様が自分の創ったモノに参加してくれている」

私はそのことに対して素直に嬉しいと思った感情を、今でも忘れることなく鮮明に覚えています。

フラワーアーティストへの道④ ~デザインの原点~

2015.06.30

私がフラワーアーティストとして活動する上で、デザインで大切にしていることがあります。 それは、”フラワーアレンジメントはハーモニーである” ということです。

このことは、私の先輩にあたるフラワーデザイナーから学び取りました。
その先輩フラワーデザイナーは私の母と同年代の女性なのですが、彼女の作品を初めて拝見した ときの衝撃は非常に大きなものでした。「お前はなんてちっぽけな世界で生きているんだ」と突 きつけられたかのようでした。

彼女の作品からは ”物語” を感じ取ることができました。複数の花たちがメロディーを奏でていた のです。一輪一輪の花が意志を持ち、自分のレパートリーをしっかり務め上げているように見え ました。

あるとき、ウエディング用の商品撮影がありました。
その先輩デザイナーが作ったメインテーブル用フラワーの撮影に入ったときのこと、撮影を担当し ていたカメラマンがこんなことをつぶやいたのです。
「この花は配置が完璧だね。花同士が喧嘩していないからとっても撮影がしやすい。」 そうつぶやいたカメラマンは、花専門その道何十年のキャリアの持ち主だったので、余計にその 言葉に重みが感じられました。

私のフラワーデザインの原点は、この先輩フラワーデザイナーとの出会いにあるのです。

フラワーアーティストへの道⑤ 〜花との出逢い〜

2015.09.2

20才 バイト 中退

話を少し遡ります。
日本中がバブル景気に湧いていた80年代の終わりに私は成人を迎えました。

当時大学生だった私は、勉強そっちのけで日々アルバイトに勤しんでいました。 或る日、次のアルバイトを見つけるために求人誌を捲っていると、”花のデリバリースタッフ募集” という文字に目が止まったのです。

「花の配達かぁ。そんな仕事があるんだ。なんか楽(ラク)そうだな。」

決して花に関心を持ったわけではなく、【デリバリー→花→軽量?→楽!】というなんともきまりが悪い動機でしたが、すぐさま電話を入れ面接を受ける手筈を整えました。

面接には店長が直々に応対してくれました。(実はこのときの店長が、上記フラワーアーティストへの道①に登場する支配人と同一人物なのです。)

わりとすんなり採用が決まり早速働き始めました。その頃はもうすっかり足の遠のいていた大学を辞める手続きをしていたはずで、アルバイトといっても週5のフルタイム。社員の方と同じ勤務体系でした。

仕事内容はなにせ花の配達ですから、1日に何十件とお届け物があるはずもなく、宅配便で働くようなモーレツさは一切ありません。

では、配達がないときはどうしていたかというと、社員の方々が作業をしている片隅で、箒を持ってボーッと立っているのです。つまり、非常に楽チンだったわけです(見立て通り!)。

アルバイトを始めてから4ヶ月が過ぎた頃でしょうか、配達もなかったのでいつものように作業場の片隅で箒を持ってボーッと立っていると、ついに見兼ねたのか店長が私に声を掛けてきました。

「和田君、ただそうしていても時間がもったいないことだし、みんなと一緒に花を挿してみないか?」

和田浩一が、まさに人生で初めて花を強く意識した瞬間でした。

「はい?僕が花を挿すんですか?」

このような経緯を持って、ついに、フラワーアーティストとしての歩みが始まることになりました。

*注釈

ここで当時の時代背景を、私のアルバイト先を例にしながら説明しておきます。 私のアルバイト先の花屋では、勤続何年目かの資格を得ると、社員研修の名目でアメリカ西海岸にご褒美旅行がありました。いくら老舗大手とはいえ、花屋の世界では破格の待遇です。また、花屋なのになぜか高級毛皮コートの販売や、”本物のドル紙幣シートのラッピング花束” で話題性を振りまいたりと、いずれもその時代の産物といえな出来ごとに事欠きませんでした。

社会全体に目を移しても、就職戦線は売り手市場。就職を焦る必要は全くありませんでした。当時はバブル期の後期、その恩恵に授かり全てが楽観ムードに浸っていたように思います。 花業界はいくつかの老舗が大手を振っていた時代で、フラワーデザインを学ぶ機関も極限られ、私のように全くの素人が即現場に入ることは何ら不自然ではなかったのです。

フラワーアーティストへの道⑥ 〜天職とは〜

2015.09.4

お粗末なエピソード

いよいよ配送専門のアルバイトから、花を挿すことが業務に加わりました。 とはいってもそこはズブの素人。戦力と呼ぶには程遠いお粗末ぶりです。

あるときなどは、バラの花をアレンジメントに使う際、社員の方の作業を見様見真似でおこなっていたのですが、茎についていた葉っぱを全てちぎってすっかりボウズの状態にしてしまい、「和田君、なんでバラの葉っぱ全部取っちゃったの?」と呆れられる始末です。

それまでというもの、自分の人生で花に興味を抱いたことなど、ただの一度もありませんでした。花にまつわるエピソードを無理やりほじくり返してみれば、それは明らかです。

高校生のとき、担任の先生(男性)が急な事情で実家を継ぐことになり、志半ばで教師を辞めなければならなくなりました。聞けば家業は花屋さん。高校生の私の認識では、花屋さんは女性が就く職業。「教師を辞めて花屋さんて。しかも先生男なのにえらいことになっちゃったな。」という話がひとつ。

また、同じく高校時代の出来事で、教育実習に来ていた先生(学年の男連中がザワつくマドンナでした)の実習期間が終わった際、クラスメイト数人(男のみ)と花屋さんで花束を買い、その先生の家を訪ねるという暴挙に出たこと。

あとはずっと幼少時代まで遡り、保育園のときのクラスの名前が ”バラ組” と”ユリ組” だったこと。公園に咲いているバラのトゲをもぎり、そのトゲを鼻の頭につけて遊んでいたこと。おそらくツツジの花だったと思うけど、その花の蜜を吸って遊んでいたこと。

お恥ずかしい話ですが、花に関する思い出はこの程度しか思い浮かばないのです。

鈍感力

にも関わらず、なぜか花を挿す作業に嫌気をさすこともなく、その後も花屋さんでのアルバイトは継続していきました。これは後に明かされたことですが、社員の方からすると、私がそうしていることは思惑違いだったようです。

というのも、実は、私がそこで働き始めたのは4月だったのですが、面接を受けた際、ひとつ条件を言い渡されていたのです。 それは、「長期可の人が優遇だけれども、花屋さんというのは夏場が暇になるので、8月の1ヶ月間は来なくてよい。」というものでした。

私はその条件については、「それなら夏場は何か別の短期バイトでもすればいいや。」とあまり深く考えずにいたのですが、実際に8月の後半くらいになると社員同士の会話では、「1ヶ月も空いてしまったのだから、和田君はきっと現れない。」ということで意見が一致していたようです。そんなことから、9月最初に出勤した時には、みんな驚いたり笑ったりしながら私を迎えてくれました。

方法は1つではない

自分の好きなこと、或いは得意分野を職業にすることを、よく ”天職を見つける” という言葉であらわします。天職は、早期に見つけられる人もいれば、なかなか見つけられずに転職を繰り返す人、見つけることすらあきらめてしまう人もいるでしょう。

今日現在、アルバイト期間を含めると、私の花屋としてのキャリアはかれこれ四半世紀を超えました。今では、花に携わる仕事ができて本当に良かったと感謝していますし、自分の性分に合っているとも感じています。

しかし、そもそもアルバイトをはじめた動機は「花が好きだから」ということではなかったのです。高校生時分には「花屋さんは女性の就く職業」と思っていたほどです。当然、当時の社員の方も、金輪際私が花の仕事をしているとは思ってもみないでしょう。

私はまれに、「もし、最初から意気込んで花の仕事に取り組んでいたら、今の自分は存在していただろうか?」ということを自分に問いかけます。

そのつど私の答えは 、”NO” です。

私の性格を自己分析するに、YESである可能性は限りなくゼロに近いのです。

”天職の見つけ方には2通りの方法がある” ということを耳にしたことがあります。

1つは、持ち前の天分を礎に、最初から覚悟を持ってその職業に人生を捧げる人。

そして2つ目は、目の前のことを時間をかけて積み重ね、気づいたらいつの間にかそれが天職といわれるものになっていたという人。

私の場合はまさに後者。
自分では気がつかないうちに、花に携わる仕事が自分にとってピッタリの職業になっていました。

フラワーアーティストへの道⑦ 〜心得と自戒〜

2015.09.8

”花を挿す業務” が加わった花屋さんでのアルバイト。面接時の条件から風向きが変わってきたものの、そのことはあまり深く考えず流れに身を任せるまま続けていきました。

もちろん主業務は配送だったのでそちらが優先。その頃には市場へ荷受けに行くようにもなり大半は外回りに出ています。花を挿す作業はあくまで ”隙間時間” を活用してのものでした。

心得

そうはいっても時給は発生しています。

それなのに足を引っ張ってばかり。花を挿している時間は時給をもらえるレベルにないわけです。 本来であれば学校へ通いお金を払って習得しなければならないスキルを、時給をもらいながら身につけるという有様でした。(これをOJTと都合よく解釈しています。)

職場としては、恐らくは私への指導で作業効率を少なからず悪化させていたはず。なぜなら、私に教えているよりも、自分でさっさと作業を進めていた方が仕事がはかどるからです。

私は、みんなの足を引っ張っている分、ゴミ掃除や段ボール潰し・バケツ洗いを率先してすることで、少しでも役に立つことを心掛けていましたが、それでも誰ひとりとして、技能の未熟な私を否定しようとする人がいなかったことは、私にとって幸運のひとこと。恵まれた環境・心やさしき人々に囲まれていたことを感謝せずにはいられません。

OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)と言ってしまえばそれまでですが、やはりそこは人が介在することなのですから、受ける側とすればその制度に甘んずることなく、”ギヴ・アンド・テイク”の精神でその時の自分に貢献できることを探して、気持ち良くその制度を受けられる環境を自ら作る必要があると思います。 つまりは、「あの子だったら、真剣に取り組んでいることだし筋も悪くない。まあ長い目で見るか。」と認めてもらうことが大切なのです。

自戒

ところが、果たして立場が替わった時に、私はその後の職歴の中で、当時の私のような人材に対して、当時の先輩社員のような人間力を発せられていただろうか?

私はその問いに胸を張って答えられません。 なぜなら、私は自分の未熟さも手伝い、そのようなケースで年下の者に厳しく接してしまったことが幾度もあったからです。(この場合の年下は、部下あるいは自分より経験の浅い人を指します。) 厳しいこと自体が悪いことだとは思いませんが、そこには何より ”愛情” が前提条件として欠かせません。具体的には愛情=フォローです。愛情のない厳しさはハラスメントになる危険をはらんでいます。その時の私にはそれが欠落していました。

たとえば、こんなことがありました。

その時職場には20名ほどのスタッフがいて、私はそのスタッフをまとめるマネージャーの職務にありました。 職場では、始業前に全員で朝礼をすることが日課になっていたのですが、いつも朝礼に遅れて出勤してくる女性スタッフがいました。 私は、彼女が遅刻してくる度に注意をしていたのですが、それでも彼女の遅刻癖は直りません。 あるとき、私はもう我慢できずに、つい感情的に彼女を叱責してしまったのです。

「なぜ毎日遅刻をしてくるんだ。やる気がないならもう来なくていい。」

すると、彼女はようやく口を開き、彼女が抱えていた苦悩を初めて私に話してくれました。

「遅刻しないようにと考えると、逆に目が冴えてしまって毎晩眠れないんです。それで、明け方になったころようやく睡魔に襲われて、目が覚めたときはもう…」

私は、その話を聞いたとき、自分の未熟さを思い知らされました。 私は、彼女にプレッシャーを与え続けていたのです。 彼女に注意をしていたつもりの私の言動は、実は彼女に大きな大きな精神的苦痛を与えていたのです。 私は、そのことを最後になってようやく知ることになりました。 このときのことは、自分への戒めとして肝に命じています。

私は両方の立場を経験しました。

大切にしなければならないことは、「年下の者は年長者を敬い、年長者は年下の者に愛情を持って接する。」たったそれだけのことです。 誰にでも理解・実践できる単純なことを、疎かにしてはなりません。

男性は ”金の卵”

恵まれた環境のおかげで、フローリスト(お花屋さん)としての知識と技術が徐々に身についていきました。微力であるものの、職場に貢献できているという実感も少しずつ湧いてきました。

当時はフラワーデザイナーやフラワーアーティストという呼称は浸透しておらず、あくまで”花屋さん”。一般的には、”女の子が将来なりたい職業” のイメージしかない時代です。そのようなことから、当然職場は女性だらけ。男女比率は1:5 、いや、もっとかもしれません。

花屋さんにおける男性の存在は、それはもう貴重だったのです。

体力に勝る男性の存在は、女性中心の職場では何かと重宝がられます。たとえば、高いところにあるものを取ったり、重たいものを持ったり、車の運転もしかり、女性が苦手とすることに率先して手を挙げることで、普段の作業で足を引っ張るマイナスな部分を十分に補えるのです。

実は、この要素は、後々自分が花屋を職業として選択する上で大きな要因になっています。

「花屋という業界において男性は貴重な存在。大事に育てられる金の卵。」

マーケティング的にもこのことは大きな発見でした。

と、そんなことを考えたりしている間に、配送業務とフローリストとしての業務の割合は徐々に逆転していきます。

フラワーアーティストへの道⑧ 〜邂逅〜

2015.09.12

はじめて好きになった花

フローリストとしての業務の割合が増えていくにつれ、花の魅力を感じ取る感性も養われていったように思います。毎日いろんな花を目にするうちに、いつのまにか自分好みの花を探すようになっていました。

私が最初に好きになった花は、”アルストロメリア” という花でした。
私の記憶が定かであれば、その当時アルストロメリアは流通しはじめの頃で、ツツジを洋装させたような華やかな姿と色が新鮮で、その目新しさに惹かれたのだと思います。

マイケル・ジャクソン

ところで、これまですっかり説明し忘れていましたが、このアルバイトをしているお花屋さんは、いわゆる街のお花屋さんではなく、ホテルの中にある業務用花店になります。結婚式や企業のパーティー・ロビーの装飾などを主に請け負うフラワーデコレーションをする会社なのです。(ウェスティンホテル東京時代も含めて、私はホテルのお花屋さんを渡り歩いてきたのです。)

私のアルバイト先のお花屋さんは、東京・永田町にあるキャピトル東急ホテルに店を構えていました。キャピトル東京ホテルといえば、政治家の会合はもとより、大物芸能人やスポーツ選手・外国人アーティストなどVIP御用達のホテルです。。過去にはビートルズが来日したときの宿としても有名です。

私の在籍時ではなんといってもマイケル・ジャクソン。当時絶頂期の世界的スーパースターが宿泊するとあって、それはもうホテルを挙げて大騒ぎでした。実は、マイケル・ジャクソンの滞在中、私は一度彼の客室に入っているのです。マイケル・ジャクソが宿泊しているスイートルームにお花を活ける注文が入り、店長のお供で彼の留守中にお邪魔したのでした。このことは今でも自慢のひとつです。

魔法の小道具

店長からはなにかと目をかけていただいていましたが、一番はじめに切花用のハサミをプレゼントしてもらったこともよく憶えています。 人は、自分専用の道具を手に入れると、それだけでなんだか一人前になれたような気になるもので、ハサミのプレゼントは店長からのおまじないだったのかもしれません。

しばらくのあいだは配送業務との併用で中途半端な立場でしたが、自分専用のハサミがあることがやけに誇らしく、きっと店長は、”フリーター”(*)の私に対して、フローリストとしての意識を芽生えさせようと、”魔法の小道具”を授けてくれたのではないでしょうか。

*この当時フリーターという言葉はまだ生まれておらず、私は元祖フリーターなのです。

はじめてのデザイン(手作り結婚式)

そんなあるとき、私がはじめてフラワーデザインを起こす機会が訪れました。

プライベートでお世話になっていた女性が結婚をすることになり、その女性の結婚式のお花を一手に担うことになったのです。 その女性には、普段からお花屋さんでのアルバイト話をよく聞いてもらっていたので、私の実力のほどもよく知っていたはずですが、それを承知で依頼をくれたのでした。

「私の結婚式のお花をやってくれない?内容はすべて和田君に任せるから、和田君の思うようにデコレーションして。」

「え? !本当に?!  もちろん喜んで!」

と、威勢よく快諾したまではよかったのですが、時間が経つにつれ気が重くなり、しばらくは胃の縮む日々が続きました。

妹さんの言葉

結婚式はいわゆる手作り結婚式で、会場の手配から飾り付け・司会進行・料理などもすべて友人知人で賄うアットホームなものでした。 お花担当の私は、テーブルに飾るお花や花嫁さんが持つウエディングブーケ・ご両親に手渡す花束などを用意することになりました。 そのころ職場で私がしていたことは、先輩がお膳立てしてくれたものを先輩と同じように作るだけだったので、クリエイティブすることの大変さをはじめて実感しながら、それでも、その時の自分のレベルの中で最高のものを作り出そうという意欲で取り組んでいました。

ヘアメイクリハーサルだったか、それとも本番当日だったかは忘れてしまいましたが、花嫁さんに生花の髪飾りを施すひとコマで、こんなやりとりがありました。デンファレという白いランを選んで花嫁さんの髪を飾り付けしていると、その様子を隣で見ていた花嫁の妹さんが、

「和田くん手付きが様になってるね。なんかそういう職業似合ってるよ。」

と言ってくれたのです。
言われたときは、作業に集中していたのと照れくさいのとで軽く受け流しましたが、内心すごく嬉しかったことを覚えています。

この言葉はこの件とともに一旦忘れてしまいますが、月日を経ただいぶ後になってから、あることがきっかけで蘇ることになります。それは、自分の決断を後押しする強い力となって。

そう、この言葉は育っていたのです。
長いこと顕在意識では消去されていたはずなのに、実はその間も、心の中にじわじわと根を張りめぐらせていたのでした。

フラワーアーティストへの道⑨ 〜分岐点〜

2015.10.13

コンプレックス

時は再びウェスティンホテル東京時代に戻ります。
足掛け6年に及ぶフリーターの肩書きに別れを告げ、いざ正社員となって乗り込んだウェスティンホテル東京。なぜ、フリーターから正社員になったのか。その経緯についてはまたの機会にお話しすることにします。

さて、フリーターとして呑気に働いていたツケがついに回ってきました。
私はこれまでの6年間、アルバイトという身分をいいことに、責任のない立場で宙ぶらりんに花に携わってきました。 専門知識を必要以上に身につける意欲もなく、なんとなく職場の居心地の良さに甘んじてやり過ごした6年間でした。

それが突然正社員となって、外資系新御三家といわれるホテルのオープニングに従事するわけですから、なんともまぁチグハグ。だったらなぜもっと真剣に取り組まなかったのか。まさに行き当たりバッタリの人生というほかありません。

正社員になればこれまでのような曖昧さが通用しないのは当然で、そのなかでも特に私が ”焦り” を感じたのは、後輩社員の入社でした。

フラワーデザインという分野が確立され、高校や大学卒業後フラワーデザインの専門学校を経て入社する新入社員がこぞって増えてきたのです。

彼らは1年ないし2年の歳月をかけてしっかりと専門知識やテクニックを身につけて入社してきます。一方の私は、先輩社員のやっていることを見よう見まねでなんとなくこなしてきた分際。完全なアウトローです。

結果は明らか。
先輩という立場にありながら、私は彼らの口にする専門用語をときに理解できず、知ったかぶりで応対する体たらくでした。

焦りを感じた私は、本当に恥ずかしい話なのですが、新入社員のひとりに専門学校で使っていた教科書を借りたことさえありました。

このままではいけない。私は本当に焦りました。
自分の立場に危機感を抱いた私は、これまで無駄に過ごした時間を取り返そうと、堰を切ったようにフラワーデザインの勉強を開始します。

オールドルーキー

30歳を過ぎて私は初めてフラワースクールに通い始めました。
周りを見渡すと、私と同年代と思しき人も見受けられるものの、多くは一回り近く年下であろう若者たちが教室を埋めていました。
これから、この若者たちに混じってフラワーデザインの勉強を一からし直していきます。

フラワーデザインの発祥であるヨーロッパでは、国ごとにそれぞれの特徴を持っています。
伝統を重んじるイギリス、ストラクチャーにこだわるドイツ・オランダ、華やかさと素朴さを表現するフランス…といった具合に、フラワーデザインにもそれぞれのお国柄が顕著になっています。

私はその中から、オランダ式のフラワーデザインを教えてくれるスクールを選びました。
オランダ式を選んだのには知人の紹介もあったのですが、古い歴史と緻密に構築していくスタイルに興味をそそられたのが理由です。

カリキュラムは、花束・ベースアレンジメント・ブライダルブーケ・フューネラルアレンジメント・フリースタイルアレンジメントの5科目。 これらの科目を講義と実習に振り分け、週に1回の通学で2年間にわたり学んでいきます。最終的には資格修了試験が待ち構えています。
授業は午前中から夕方までみっちり。私は会社から支給される週に2回の休みの1日をこの通学に当てていました。

授業はとても新鮮でした。
講義の授業では自発的に前の席に座り、これまで曖昧だった専門用語をひとつひとつ理解していくことが嬉しくてたまりませんでした。

実習ではさらに新しい発見がありました。
周りの人たちと比較しても、私の技術が決して劣っていないことがわかったのです。
これまで居心地の良さに任せてなんとなく働いてきた花屋生活でしたが、自分でも気づかないうちに平均以上の技術が身についていたのでした。 過去のフリーター生活に後悔と引け目を感じ始めていた自分にとって、このことは大きな自信になりました。

2年後、すべてのカリキュラムを修了し、いよいよ資格試験の日がやってきました。
試験は東京都中央卸売市場大田市場で行われます。真冬の寒さと緊張で身体中ガクガク震える中、オランダ人の試験官を前にして実技が一斉にスタートしました。

試験後の審査で3人の名前が呼ばれ、そのうちの1人に私の名前がありました。
その3人は試験落第者というわけではなく、合格者の中の最も優秀な人に与えられる
”オランダ大使館特別賞” の受賞者のことでした。 私はその1人に選ばれ、オランダ大使館での授与式で表彰される栄誉にあずかったのでした。
生徒数10,000人以上を誇るオランダ最大の園芸アカデミーウェラントカレッジが認定する国際資格CEF(Certificate of European Floristry)を修了。
このようにして、私の30代オールドルーキーは卒業となりました。

この2年間は、過去6年に及んだフリーター生活との格闘の2年間でもあったような気がします。 私にとって基礎からフラワーデザインを学ぶことは、ずっとわだかまりとして抱えていたコンプレックスから脱却するための格闘だったのです。

前進か後退か停滞か。
30代での入学は、私にとっての大きな分岐点だったような気がします。

PAGE TOP